会誌「電力土木」

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でんたん

第48回 「使った水はお返しします」日本初の揚水発電所 池尻川発電所(東北電力株式会社)

 

池尻川発電所は長野県信濃町に位置し,野尻湖の水を発電に利用した最大使用水量4.17 m3/s,最大出力2,340 kW で,昭和 9 年に運転を開始した日本初の揚水式発電所です。
 野尻湖は,標高656 m の高原に位置する面積4.55 km2 の天然湖で,長野県信濃町にありながら古くから新潟県の中江用水組合(現土地改良区)が特権を有していた(江戸時代の家老の小栗美作の頃から,野尻湖から流れ出る池尻川の定水の独占使用権と,水不足の時に野尻湖の水を落とす干ばつ貰水を独占していた)と言われています。
 明治時代の電力会社は,野尻湖の貯水池としての利用に大変魅力を感じていましたが,集水面積が小さく夏季の渇水期に利用するには観光シーズンまでに水位の回復を図る必要がありました。このため,斑尾山麓に源を発し関川に流れ出る古海川の途中から隧道で野尻湖に引水することと,野尻湖面を0.6 m 低下させた水深の利用をセットで,大正15年 1 月に中央電気?が発電水利使用願を出願し,地元の猛反対にあいながらも粘り強く説得し,昭和 3 年に発電水利権を得ました。引水工事は翌年完成し水量の確保は十分な成果がありましたが,今度は湖周辺の浸水問題に発展してしまいました。
 このような中,昭和 4 年 8 月に中央電気?専務の国友末蔵は,エジソン電灯発明50周年記念祝賀会で米国に招かれ,帰路にドイツのルール川沿いのハーゲンで揚水式発電所を見学しました。国友が帰国する直前の昭和 4 年10月に世界恐慌がおきて,当地域でも農村不況対策として発電所建設などの要望が高まり,地元との間で池尻川発電所の建設と,水門を境に湖面側を60 cm,池尻川側を60 cm 掘り下げる工事について合意しました。
 水門前後の掘り下げ工事は昭和 8 年に完成しましたが,昭和 6 年の冬はまれにみる小雪で,翌 7 年 5 月末までに野尻湖の水位回復が見られず,国友は我が国初の揚水式発電所を建設する決意を固め,昭和 8 年10月に着工し,昭和 9 年 4 月に運転を開始しました。
 池尻川発電所の完成により毎年 9 月11日から翌年 5 月31日までは電力会社が野尻湖の水を利用し,6 月 1 日から 9 月10日まで中江用水がかんがい用水として利用することとなりました。このように「発電で使った水は中江用水が必要な時期までに野尻湖にお返しします」というのが,日本初の揚水式発電所が建設された理由なのです。
 野尻湖の利用水深は6.364 m ですが,野尻湖から流れ出る池尻川の敷高は満水面から−2.88 m と高いことから,非かんがい期等に発電する際は,野尻湖にある揚水所において野尻湖出口の池尻川にポンプアップし発電に利用するという不思議な発電所でもあります。
 この地域では,黒姫山山麓の冷涼な環境でそばが栽培されており,霧が多くかかることから「霧下そば」と呼ばれています。近くにお越しの際はご賞味ください。

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