会誌「電力土木」

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巻頭言

水力について

 

宮永 孝志

北海道電力? 水力部長

 30年前,北海道電力に入社してすぐ,道北地方の水力発電所を維持管理する事業所に配属となり,それ以降,ほとんど水力に関わる仕事に従事してきた。水力発電所について最初の勉強には,それぞれの専門書のほかに建設工事記録や技術的記載は少ないものの地域とのつながりを知ることができる地元郷土史などが参考になると当時の先輩に勧められた。今でも読む機会はあり,今さらながら気づかされることもある。今回,紙面をかりて北海道の水力発電所を少し紹介させていただき,水力について思うところを述べさせていただきたい。
《水力のはじまり》
 北海道で初めての電気は,1890年札幌の北海道製麻会社において自家用発電設備によって夜間作業のために灯したのがはじまりであった。翌年には北海道最初の電気事業者が札幌で開業したのを契機に函館や小樽で相次いで事業が展開されていった。当時の発電設備は,産業用の蒸気エンジンを流用した汽力発電であったため,冬の厳寒期には大量の石炭を消費するなどの高コストに加え設備の故障が頻発していた。しかし,送電技術が発達し長距離送電が可能になると,都市部から離れた地点での水力発電所が利用できるようになり,さらに京都蹴上発電所の運転開始以降,水力発電の優位性が見直されるようになっていった。
 1906年,岩内水力電気(当時)により敷島内発電所(120 kW)が運転し,これが北海道における水力発電の歴史のはじまりとなる。この発電所は,滝地形をうまく利用するなどしていたが,十分な水力調査がなされていないため冬の渇水期には出力低下が著しく火力発電による電源補給をせざるを得ない状況であった。
 開発が進む札幌の市街を流れ,豊富な河川水量に恵まれた豊平川に,1907年定山渓発電所(400 kW)が運転を開始した。この地域は現在でも温泉地として有名であり,発電所の建設以降,鉱山開発や鉄道開通などが相次いで進められ,地域産業の発展の契機となった。現在も稼働する北海道で最も古い発電所となったが,当社水力電気部門の技術研修の場としても活用しており,冬の渇水期に発電所を停止し,水車発電機の分解,手入れ,補修,組立を行い,春の融雪出水期に有水試験を行うもので,若手社員の技術研鑽につながるものとなっている。
《最大級の水力発電所》
 1943年,北海道で最大級の水力発電所として雨竜発電所が運転を開始した。大正期から計画されていた地点であるが,戦時下では戦力増強のため非常工事として位置づけられるものとなった。大きな特徴として,石狩川の源流として南下する雨竜川に巨大な人造湖をつくり,約6.8 km の導水路で東方に位置する発電所へ導水し,51,000 kW 発電した後,北上する別の河川へ流域変更するというスケールの大きい計画である。この貯水機能を得るのは,雨竜第 1 ダム(堤高45.5 m)と土えん堤(堤高22 m)でつくられる朱鞠内湖(しゅまりないこ)と雨竜第 2 ダム(堤高35.7 m)の宇津内湖(うつないこ)であり,これらの湖は連絡水路で結ばれている。各ダムとも決して規模の大きいものではないが,朱鞠内湖の貯水容量は戦後天竜川の佐久間ダムができるまでは日本最大,湛水面積は人造湖として今もなお日本最大である。発電所の形式は,わが国初の地下式発電所としており,道内有数の豪雪地であることから変電設備などの主要機器類も発電所建屋内に格納され,当時としては画期的な発電所であった。
 雨竜川流域は過去幾度も洪水被害に見舞われており,近年でも雨竜川上流域で計画高水位を超過するなど,流域の基幹産業に大きな被害をもたらしていた。そこで,治水の安全度を図るため,雨竜川の河川整備計画が見直されることとなり,雨竜第 1,第 2 ダムは既設ダムの有効活用の観点からダム再生事業に組み込まれ,一部の利水容量を洪水調節容量に振り替えることや,雨竜第 2 ダムを嵩上げし新たに洪水調節容量を確保するなどの計画が進められている。
《大水力電源地帯の誕生》
 戦後の高度経済成長による電力需要の伸びへの対応として,それまで水力開発がほとんど手付かずであった日高地方において大規模な開発計画が展開していった。この日高電源一貫開発計画は,北海道の背骨といわれる日高山脈から太平洋に注ぐ双珠別川・沙流川・新冠川・静内川の 4 つの河川を縦横に水路トンネルで結び,集めた水資源を大小さまざまなダムに貯え,需要の変動に対応してピーク発電を行い,最下流は河口近くまで利用して太平洋に放流するという雄大なものであった。計画の基本には,単独では中小規模の河川水を広い範囲にわたる流域変更により使用水量を増やし,さらに最上流から最下流の発電所間に無効落差がないよう徹底的な有効活用を図っている。
 開発時期は,おおむね四段階で進められ,第一段階(1956年〜1959年)では,交通の便がよく比較的小規模かつ短期に開発できる前進拠点づくりが行なわれた。続く第二段階(1959年〜1963年)で,流域変更による河川連系が完了。第三段階(1963年〜1983年)が,この計画の目玉である新冠発電所と高見発電所の大規模揚水発電所の建設がなされた。両発電所は,新冠川および静内川に中核となる貯水池を設け,日高地方一帯に一大ピーク需要対応基地となったものであり,日高一貫開発の中心的役割を担うものとなった。その後(1983年以降),総合開発関連や中小規模地点など系統全体の完成時期となり計画の完了に至った。
 このように長い年月をかけ段階的に開発することは,特に技術力の向上と人材の育成の面においても理想的であった。発電所の建設では土木工学をはじめ幅広い知識が必要となり,調査,設計,施工管理までの一連の業務を生きた現場でその時代の最新の知識・技術を取り入れながら,そのレベルを大きく前進させていった。
《ブラックアウトでは》
 2018年 9 月 6 日 3 時 7 分,北海道胆振地方中東部を震源とする最大震度 7,マグニチュード6.7の地震が発生し,その18分後の 3 時25分には,約295万戸への電力供給が止まり北海道全域にわたる大規模停電いわゆるブラックアウトが発生した。このブラックアウトの主な要因は,主力となる石炭火力発電所 3 基が震災で停止したことに加え,送電線の事故により水力発電所の停止という想定を超える複数の事故が発生したことによるものであった。
 電力系統の全ての発電機が停止してしまい,再び電力を供給するには大型の火力発電所によるが,発電機を起動させるにも,その周辺の機器類に電力を供給する必要がある。この地震では主力となる火力発電所が震源地に近く,設備にも大きな被害を受けてしまったが,幸い水力発電所はほぼ無傷な状態であったため,単独で自力起動できるブラックスタート機能をもつ発電所を種火として復旧操作が開始された。電力系統の主要となる基幹系統の復旧は,設備規模の大きい揚水式発電所から行い,火力および原子力発電所の所内電源へ送電を進めた。また,ローカル系統においては一般水力発電所から送電を開始し,近傍の発電所を順次起動させながら系統に送電を続け,中規模火力発電所の運転再開に繋げていった。ブラックスタートから,北海道の電力供給が平常に戻るまでに約45時間を要し,その間道民の皆様には大変なご不便とご苦労をお掛けすることとなった。このような事象を二度と起こさないことは勿論のことであるが,有事における水力発電所の機能を万全に維持することの重要性を改めて認識した。
《貴重な財産》
 技術的にも成熟した水力発電には,他の電源と比較して,化石燃料を使用せず CO2 がほとんど発生しないクリーンエネルギーであり,枯渇することなく循環再生が可能なエネルギーである。発電機能においても,起動停止や出力変化が極めて短時間で可能で,外部電源がなくても自己起動することができるため,電力系統が全停した時に送電発電機となる。その時代の要請に応じて役割は変化してきたが,将来においても国産エネルギーとして変わらず活用できるものであり貴重な財産である。水力開発地点の奥地化や経済性の面から,新たな開発が進まない現状にはあるが,今ある財産を長く使い続けられるよう水力の持つ価値を損失させてはならない。唯一,水力の機能低下や価値の損失を招くものは,近年激甚化してくる豪雨災害である。2016年 8 月の北海道では,観測史上初めて 1 週間に 3 個の台風が上陸し,さらにその後に続いた台風が記録的な大雨をもたらし広範囲で被害が発生した。当社の水力発電所でも,一時19箇所で発電停止となり,特に富村ダム調整池には,約 2 万 m3 の流木と約49万 m3 の土砂が押し寄せ,取水口パイプスクリーンを損壊させ,導水路から放水路までの全長約10 km の水路全線に堆積する事態となった。水路内での復旧作業は,ヘドロ状になった土砂の運搬,乱積みとなった流木の処理,施工機械からの排ガス処理など厳しい条件が重なったため,作業計画の見直しや施工機械の改造を加えながら約1.5年を要して運転を再開させた。
《安全をもって安心を届ける》
 降雨出水においては,ダム管理に関わる技術者が,気象情報を元に降雨量や流出量の予測,放流時期の判断,放流設備の事前確認,河川関係者への通知通報,河川パトロールなど,ダムゲートを操作するまでに様々な要因を極めて短時間に判断し行動することが求められる。近年の異常気象ともいえる豪雨災害では,従来通りの対応では手遅れとなったり,想定の規模を遥かに上回る事態となる恐れがあるが,このような緊急,緊迫した状況下であっても使命感を持った技術者の冷静な対応により,安全が確保されている。
 ダムや水力発電所をご存知の人々でも,その陰に責任感と使命感を持った技術者がいることは意識しないと思うが,技術者の努力の積み重ねが,安心となって人々にお届けできるものと思っている。

     
     
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