会誌「電力土木」

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巻頭言

黒四からナムニアップ,そして第二のナムニアップへ

 

三皷 晃

関西電力? 土木建築室 土木部長

 黒部川の電源開発は昭和 2 年の柳河原発電所を皮切りに,日本電力によって昭和11年に黒部川第二発電所,昭和15年に黒部川第三発電所,富山県により昭和11年に愛本発電所,日本発送電によって昭和22年に黒薙第二発電所と下流から順次開発されていった。
 昭和26年の電力再編により発足した関西電力にとって戦後の経済復興に伴う深刻な電力不足は最大の経営課題であった。急速な需要増加に対応すべく新鋭の大規模火力が建設されたが,時々刻々と変動する需要に即応できなかった。関西電力初代社長太田垣士郎はこの負荷変動に対応するための大規模な貯水式発電所である黒部川第四発電所の建設を決断する。唯一の大規模資機材搬入路である大町ルートの早期開通,なかでも関電トンネルの開通は全工事の死命を制した。昭和31年10月に掘削を開始,翌年 2 月に平均日進は10 m を超えた。ところが 5 月 1 日大破砕帯に遭遇し切羽が全面的に押しつぶされ全員退避。7 月16日には大量な湧水と土砂崩壊により工事不能に陥り,9 月26日湧水量は毎秒659.6 L に達した。この最中,8 月に太田垣は自らの危険を顧みず破砕帯へ乗込み,現場第一線を鼓舞激励した。これに関電技術陣や熊谷組,また笹島信義氏が率いる笹島班も大いに奮起し破砕帯を克服した。社内でも「黒四に手を貸そう」といった強力な支援が澎湃として起こり,現在も関西電力社員に“黒四魂”という DNA として引継がれている。

 私は平成 2 年に関西電力に入社し新柳河原水力発電所建設所に赴任した。この建設は旧建設省宇奈月ダムの新設により水没する旧柳河原発電所の補償工事として新たに発電所を嵩上するものであった。当時は黒四建設の経験者が現役で活躍されており,貴重な指導をいただきながら毎日悪戦苦闘した。急流の大峡谷での工事は驚きと緊張の連続であった。仮設橋梁をいとも簡単に流す洪水の威力,机上計算だけでは説明がつかない掘削斜面の挙動,ダム掘削での大規模な法面変状,これらの経験は現在も業務の拠所となっている。

 入社 7 年目の平成 9 年,2 度目の北陸支社勤務となった。主な業務は出し平・宇奈月ダムの連携排砂実施計画の策定であった。発令日の平成 9 年 6 月は緊急排砂の最中であり,辞令を受取ると弊社黒部川電力所に直行した。172万 m3(既往最大量)排砂のスケールのみならず影響範囲の大きさを目の当りにした。出し平ダム排砂は平成 3 年に行われた初回排砂で下流域に甚大な影響を及ぼしたため地元の強い要請により中断されていたが,この緊急排砂は平成 7 年 7 月の黒部川を襲った土砂災害対策の一環として,富山県の主体により平成 7 年から平成 9 年までに特例として実施された大規模な排砂であった。平成12年には排砂ゲートを有した宇奈月ダムが完成予定であり,その排砂に支障を来さないように,宇奈月ダム完成までに出し平ダムの恒常的な排砂の実施については地元合意を取付け,その運用を定着していく必要があった。想像以上に地元説明は困難を極めた。初回排砂に起因する関西電力に対する大きな不信感があった。地元の極めて厳しい意見に何度も挫折しそうになった。排砂は悪なのか。地元学識者の助言で原点に戻ることができた。本来の河川は水とともに土砂も運搬し,新鮮な有機物を海に供給していた。排砂の運用を自然の河川に近い形にすることで環境は改善されるとの信念で,多くのデータから客観的に影響を予測し,粘り強く,誠実に説明を繰り返した。2 年の歳月を要したが,出水期間内のみの実施など厳しい条件が付された上で何とか合意を得た。
・排砂:当該年度の出水期の最初の出水で実施する排砂であり,前年度の最終排・通砂からの堆積した土砂の排砂が目的。堆積土砂変質防止の観点から年一度は確実に出現する出水規模で実施。
・通砂:排砂後の洪水で流入する土砂をダムに貯めることなく下流に流出させることが目的。洪水ピーク後に実施。なお通砂という用語については新潟大学名誉教授大熊孝先生から指導を受け新たに定義した。

 入社19年目の平成27年に 3 度目の北陸支社勤務となった。当時黒薙第二発電所の導水路の余力を活用した新黒薙第二発電所の新設工事が行われており,熊谷組のもと旧笹島班の笹島建設が掘削を担当した。その縁もあって熊谷組の元会長大田弘さんから生前の笹島信義さんと懇談する機会をいただいた。
-太田垣社長が現場に来られた時,危ないので早く帰ってほしいと思っていた。現場で社長から「掘れるかね?」と聞かれた時,ふて腐れて「何とかなるでしょう」と答えた。その後社長から手紙をもらった。宇奈月からだった。手紙には「諸君の元気な姿を見て安心した。日本の土木の名誉のため頑張って下さい」と書かれていた。“日本の土木の名誉のため”という言葉に技術屋として奮い立った。
-社長が現場に来られた時,現場は殺気立っていた。社長は作業員の一人一人に声をかけていた。関電のやるという意志は皆わかっていたが,社長の訪問で士気が一気に上がった。社運をかけて掘るんだという社長の気概が作業員一人一人まで通じた。
-危険な工事であったため,常に作業員の家族には気を配った。盆暮れには作業員の奥さんに当時珍しいエプロンを贈った。子供には下駄を贈った。作業員が無駄にお金を使わないよう賃金の 7 割は家族に送金した。とにかく家族を安心させることに腐心した。工事中断中に一旦返した作業員のほとんどが工事再開後に戻ってきた。家族との信頼関係があったからだと思う。信頼に尽きる。あのトンネルは俺だからできた。
-六甲トンネルや青函トンネルでも苦労したが,黒四を掘ったことが精神的な支えだった。最後は精神力。後は神に任せるしかない。
 これら笹島さんの貴重な話を直接伺いトンネル技術者としての意地,覚悟,度胸,そして優しさを学んだ。

 平成28年からナムニアップ 1 パワー社出向となった。本プロジェクトは関西電力,ラオス国,およびタイ国企業の共同出資によりラオス国での大規模水力発電所を建設するものである。主ダムおよび逆調整用副ダムと主副 2 か所の発電所から構成され,そのうち主ダムは,堤高167 m,堤頂長535 m,堤体積2,360,000 m3 の重力式コンクリートダムであり,RCC(Roller Compacted Concrete)工法が採用された。そこでは主ダムの RCC 打設から湛水開始まで工事最盛期の 2 年間工事所長を務めた。
 RCC 工法は,施工性や経済性の観点から海外の多くのダムで採用されているが,国内では実績がなく,関西電力も初めての施工であった。RCC 打設開始当初は,複雑な基礎岩盤やダム施工に不慣れな作業員により施工量は上がらず,加えてラオス国政府からダムの安全性評価を委嘱された RCC 専門家(DSRP)から,品質に関する多くの厳しい指導も受けていた。一方でダム基盤の水平弱層対策や湛水時期の前倒しなどで当初計画より 5 ヶ月以上工程短縮をする必要性が生じていた。この課題解決のカギは作業員の施工技術力の向上であり,様々な教育を行うとともに作業員一人一人が誇りを持って作業できるよう現場で声を掛け続け,また褒めるようにした。半年程は辛抱が続いた。しかし効果は徐々に現れてきた。平成29年 1 月には日打設量9,141 m3 を記録し,黒部ダムの日本記録8,653 m3 を抜いた。翌 2 月には月打設量189,079 m3 を記録した。品質面でも作業員のスキル向上は目を見張るものがあり DSRP からも高い評価を受けるまでになっていた。

 平成29年には上流域で別プロジェクトのダムが崩壊し,大量の土砂が副ダム調整池に堆積した。調整池容量の減少が発電運用に支障を来す可能性があったが,堆積土砂の含有物質が将来下流域に影響を及ぼす可能性もあった。通砂が唯一無二の対策と直感し実施を決断した。環境専門家は反対したが,影響緩和策は描けていた。地元は任せてくれた。結果,概ね問題なく完了できた。黒部での排砂経験が海外で活かされた。

 カーテングラウトについても難題が山積していた。ダム基礎岩盤は泥岩と砂岩が複雑な互層を形成し,多数の弱層・開口亀裂や大規模な褶曲帯を伴っていた。一列配列で所定のルジオン値を満足させる必要があった。特に褶曲帯部におけるカーテングラウトでは度重なる孔崩れ,パッカートラブル,グラウト材の大量注入等が頻発し,多くの追加孔が必要となった。懸命な施工にもかかわらず,湛水予定の 5 月の 2 か月前,3 月段階で約30%の18,000 m のグラウト,それもほぼ褶曲帯,が未完であった。客観的にはほぼ不可能な数字である。関西電力・大林組の両所長以下,毎日毎日,機械や作業員の配置までタフな打合せを行った。全員が工事完遂を信じていた。4 月に入り現場が厳しさを極める中,水祭りの時期が訪れ作業員の大量離脱が危ぶまれた。しかし作業員は殆どが現場に残ってくれた。地元の副村長もいた。我々の思いを作業員が受け止めてくれていた。湛水開始予定日から半月が過ぎ,雨期が本格化してきた 5 月14日,何とかカーテングラウトの完了が見えてきた。しかし褶曲帯深部の100 m 孔 3 本が未だに掘り切れていなかった。DSRP は15日までにこの 3 本が掘れなければ湛水は許可しないと最後通告してきた。流入量がこれ以上増えると堤内仮排水路ゲートが操作不可となり湛水が 1 年遅れる。関係者が心ひとつとなって精神力で何とか掘ってきたが,いよいよ本当の神頼みになった。15日早朝,現場から掘削完了の一報が届いた。セメント4,380 t,有効掘削長53,700 m に達していた。
 湛水後,現在まで提体からの漏水は殆どなく,褶曲部の異常な揚圧力は記録されていない。

 困難に直面した時,あらゆる経験を総動員して知力の限り尽くしていくこと,強い思いを持ち挑み続けること,これらの姿が次第に現場に伝わり思いがひとつとなった時,強大な力となること,これを若手技術者へのメッセージとしたい。将来,第二のナムニアップに携わるであろう若手技術者へ。

     
     
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